Sashino Shrine - Ishioka
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★
に基づく 6 レビュー
Contact Sashino Shrine
住所 : | 4120 Kakioka, Ishioka, Ibaraki 315-0116, Japan |
Postal code : | 315-0116 |
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久
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久住一美 on Google
★ ★ ★ ★ ★ 当社(サシノジンジャ)は、石岡市(旧八郷町)柿岡に立地し、新治郡の延喜式式内社(論社)である。
御祭神は豊城入彦命(トヨキイリヒコノミコト)、日本武尊(ヤマトタケルノミコト)、彦狭島命(ヒコサシマノミコト)の三柱。
豊城入彦命は第10代崇神天皇皇子、日本武尊は第12代景行天皇皇子、彦狭島命は彦狭島王と同一視され豊城入彦命の孫である。いずれの人物も東国征討の任に当たった。以上のことは、「柿岡」は東国征討の兵站基地として最前線の上野国下野国へ兵士や兵糧を供給する拠点であった。柿岡は、八郷盆地の中心地で、かつ四方八方から道路が集まり恋瀬川が流れている交通要衝地である。
被埋葬者とされる豊城入彦命の奥津城(オクツキ、いわゆる墓)とも言われる丸山古墳に隣接して高友丘陵の斜面に建立されている。
その麓の集落に一の鳥居が社号標とともに立ち、この先から階段が上に伸びていて二の鳥居を潜り、社殿が立つ境内地への最後の階段下には麓の集落から左右の道筋(男坂女坂)が延びている。社殿は、境内地の奥に拝殿が、そしてさらに奥に主殿が覆屋に囲まれている。境内地の周囲には祠や石碑が立ち、歴史を感じさせる景観をけいせいしている。
また、麓の集落の下には恋瀬川の「高友遊水池」が整備され、下流側の柿岡などにとって防水防衛上の重要地点であり、佐志能神社並びに丸山古墳が高い存在意義を有するものと考える。この点は、佐自塚古墳や二子塚古墳等の「丸山古墳群」の存在が証明しているものと思われる。
したがって、神社並びに古墳の二つが豊城入彦命(第10代崇神天皇皇子)を対象とするので、何らかの天皇家に繋がる関係が成り立つのかもしれない!。柿岡地区の柿は献上柿となっており、加えて佐志能神社はご朱印について旧八郷町内の足尾神社が取り扱っているが、同神社は醍醐天皇から神社名の勅額を賜っている。
式内社の佐志能神社は新治郡に立地する必要があるが、古代の新治郡と太閤検地後の近世の新治郡は、所在地域が相違する。相違はあるが、何らかの共通点が必要であるとすれば、毛野国の前線への支援ルート、霞ヶ浦から恋瀬川へ、恋瀬川から新治郡(郡庁(筑西市新治))というルートが考えられる!。
「社名石」には、真ん中に「佐志能神社」と縦書きされて、この右側には「式内」、左側には「二十八社」と書かれてある。前者は当然延喜式式内社を意味し、後者は28の社がある意味と思われる。ざっと歩いただけなのか28は、数えられなかった。次回にはこの数を頭に置いて参拝することにしょう!。
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0 Mitsugaki on Google
★ ★ ★ ★ ★ [延喜式内社]常陸國 新治郡 佐志能神社
[Yanxi-style inner shrine] Tohoku country Shinji-gun Sashineng shrine
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み
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みけねこ on Google
★ ★ ★ ★ ★ 御祭神は豊城入彦命,配祀として彦狹嶋命・日本武尊。御祭神は第10代崇神天皇の皇子であり,四道将軍として東国鎮撫の大任中薨去し,西側に隣接する丸山古墳を奥津城として葬られた。当社はその後,第32代崇峻天皇元(587)年に神告によって創建された。中世においては,白鳥明神とも高友明神とも称されたとのことですが,白鳥は日本武尊からでしょうし,高友は旧地名からでしょう。また,当社は延喜式内(小)社「常陸國新治郡 佐志能神社」の論社で,論社ということは他に候補があるわけで,それが同市内に鎮座する染谷「佐志能神社」・村上「佐志能神社」,そして笠間市の「佐志能神社」ですが,石岡市は現在でこそ新治郡の範疇ですが,延喜式の時代においては茨城郡だったので,有力とはいえないところです。
下の集落の狭い路地沿いから一の鳥居から石段を上って狭い道路を挟んで二の鳥居からまた石段を登っていくとすぐに鎮守の杜に囲まれた広い境内へ。境内には江戸時代の様々な年号が記された石碑や石仏が並び,奥には式内論社としてはこじんまりとした拝殿(比較的近年に改築された様子です)がありました。後ろの御本殿は八郷地方らしく覆屋の中で,朱に彩色された御本殿の屋根の一部が間から見えるばかりでした。
悠久の歴史をひしひしと感じられる,そのような御神域であります。
The deity is Prince Toyokiirihiko, and Prince Hikosashima and Takeru Nihon are enshrined. The god of worship was the prince of the 10th Emperor Sujin, and as the Shoguns of the Four Provinces, he passed away during the demise of the crown of Togoku, and the Maruyama tumulus adjacent to the west was buried as Okutsu Castle. Our company was subsequently founded by the decree in the 32nd Emperor Sushun (587). In the Middle Ages, it was also called Shiratori Myojin and Takatomo Myojin, but Swan is probably from Yamato Takeru, and Takatomo is probably from the old place name. In addition, our company is a theory company of Engishiki (small) company "Sashino Shrine, Niihari-gun, Hitachi", and there are other candidates for the theory company, and it is Someya "Sashino Shrine" that is enshrined in the city.・ Murakami "Sashino Shrine" and Kasama City "Sashino Shrine", but Ishioka City is now in the category of Niihari District, but it was Ibaraki County in the Engishiki era, so it is influential. There is no place.
From the narrow alley of the lower village, go up the stone steps from the first torii gate, cross the narrow road, and as soon as you climb the stone steps from the second torii gate, you will reach the wide precincts surrounded by the guardian forest. The precincts were lined with stone monuments and stone Buddha statues with various eras from the Edo period, and in the back was a small hall of worship (which seems to have been rebuilt in relatively recent years). The main shrine in the back was a covered house like the Yasato region, and only a part of the roof of the main shrine colored in vermilion could be seen from the middle.
It is such a sanctuary where you can feel the eternal history.
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K
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K. Takei on Google
★ ★ ★ ★ ★ 2021.5.2に参拝。スダジイ他の巨木に囲まれた里山の神社です。境内から少し離れた場所にも大きなスダジイがあり、根元に小祠もありました。
Visit 2021.5.2. It is a satoyama shrine surrounded by Sudajii and other giant trees. There was a big Sudajii in a place a little away from the precincts, and there was also a small shrine at the base.
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福
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福地修 on Google
★ ★ ★ ★ ★ 3世紀後半に実在したとみられる第10代崇神天皇、その皇子であり東国統治の勅命を受け、毛野国を統治した豊城入彦命(とよきいいりひこのみこと)。ここ丸山丘陵の高台にある丸山古墳は、その豊城入彦命の墳墓と伝えられ、4世紀末頃と思われる副葬品が出土した大きな前方後方墳があり、その古墳を祀るように前方部と対峙した形で佐志納神社があります。
この古墳脇の柿岡佐志納神社、龍神山腹の染谷佐志納神社を結ぶ直線の先に、常陸国国府があるのは偶然でしょうか?
古墳時代前期、ヤマト王朝東国統治の祖神を、後世に赴任して来た国司が、手を合わせたように思えてなりません。
The 10th Emperor Sujin, who is believed to have existed in the latter half of the 3rd century, is the prince of the Emperor, and has received the imperial rule of the eastern government, and has ruled Mao-no-Kuni. The Maruyama burial mound on the hill of Maruyama hill is said to be the burial mound of Irihiko Toyojo's burial mound. There is Sashina Shrine.
Is it a coincidence that Hitachi Kokufu is located at the end of the straight line that connects Kakioka Sashina Shrine on the side of the old burial mound and Someya Sashina Shrine on the hillside of Ryujin?
It seems to me that Koji, who took over the ancestor of the Yamato dynasty's eastern reign in the early Kofun period, in a later generation.
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